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『写真で見る維新の京都』、『明治維新人名事典』を確認いたしましたが、似ているような文章でしたが、全てを引用しているわけではなく、実際のところよくわかりませんでした。
生誕地についてていえば、『明治維新人名事典』に記載されている平之馬場は誤りで、横山詠太郎『中井櫻洲』などに載っている高見馬場が正しかったりと、誤りの部分を貴ホームページは引用しているようです。
それから、「宇和島藩主伊達宗城に招かれて、同藩の周旋方として京都で活躍した。当時彼は中井弘三(弘蔵)と改名して、木屋町通り六角下ル山崎町に住み、諸藩の志士たちと交わった」このように書いてありますが、中井弘蔵を名乗ったのは、慶応4年です。宇和島藩の周旋役をしている時期には、此の名前を名乗っていないという矛盾も生じています。
両方の本を確認して、ますますわからなくなってしまいました。
晩年の中井の邸宅については、横山詠太郎『中井櫻洲』で確認できましたので解決しましたが、木屋町通り六角下ル山崎町に住んでいたことを証明する手紙や日記などは確認できておりません。何時頃の寓居であるのか知りたいと思っております。
何か思い出されることがありましたら、再度、ご教示いただげましたら幸いです。
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